京都健康コンシェルジュ通信

京都生まれ京都育ちの健康コンシェルジュ、少食アドバイザー三双としろうのブログ

【3月11日を想う】

おはようございます

京都伏見の
ひとり暮らし向けマンション
『カーサ・デ・伏見』の大家 
コスパで上質な
ひとり暮らしを応援します
さんそうです

今朝は晴れました
気温は5度でした
体調崩されませんように
どうぞご自愛ください

今日は
3月11日 あれから5年です

そういえば5年前もたしか金曜でした

今朝の東北地方で読まれています

 今でも、時折、思い出す光景がある
あの日、3月11日の夜
私たち家族は夕暮れから夜にかけて
続いた大きな余震に
このままでは家が崩壊すると
何度も皆が庭に出た
激しい揺れと
不気味な地鳴りに似た音を聞きながら
余震が去るのを待った
やがて余震がおさまった

奇妙な音に空を見上げた
満天の星空の中を
いくつもの流星が横切った
落ちるように見えるものもあれば
上昇するように見える星もあった

-天に行くのか…

 思わずそう感じたのは
手動式のラジオで我が家から
それほど遠くないところの海岸に
おそるべき数の人影が
横たわっていると聞いて
驚愕(きょうがく)
していたからである

「こんなに美しい夜空なのに
どうして?」
家人の声に
私は怒りがこみあげてきた

-私たちが何をしたというのだ
この大地は誰のものなのか

 先月、被災地を家族と見て回った
 震災直後は、船が、家屋が
こんな奥までと驚いた
3年前は、瓦(が)礫(れき)が
泥土が見上げる塔のようにあった

 今は宮城県南三陸町では
いくつもの台形の土地の中に
最期まで避難放送をしていた
若い娘さんがいた
防災対策庁舎の鉄の骨組みだけが残り
その隙間から早春の青空が見えた
その青色は美しく澄んだ春の色だった

 北上川沿いへ行くと、石巻市
いくつかあったはずの
町並みも平らな土地になり
小学校の壊れたままの校舎と
それを見守るように
天使の像と慰霊碑があった

子供たちと先生が聞いていたであろう
北上川のせせらぎの音を風が運ぶ
沈然と、祈るしかすべがない
小学校跡には音楽教室の
窓にも入っていたであろう
川音だけが流れていた
日和山から見下ろした町には
まだ家も人影もなかった

 声を出す間もなく
津波にのまれて行った
人々の想(おも)いは
今どこにあるのか

沈然の土地のむこうに
青い海原が太平洋にひろがり
沖へむかって漁船が進む
海はもう戻って来たのか
そんなはずはない
まだ多くの犠牲者が眠っている
それでも人々はゆたかな海を信じて営みをはじめている

-太古よりゆたかな海流と
奥羽山脈の恵みを与えられてきた
この春の海の美しい色彩は
何なのだろうか

 声に振りむくと
神社の階段を高校生が駆け上がる
白い歯が見える
希望を見つめる肉体がはずむ
福島では新生の学校が
生まれたと聞いた
岩手では木を植えはじめた
人々がいるという
鉄道レールを
舗装した道を走るバスも見た
川岸に打たれた鉄の岸辺も見た
高台の家屋も
建築中の集合住宅も見た
仮設の商店街の
賑(にぎ)わいにもふれた

 なのに政治家が
テレビのキャスターが
平然と語る“復興”と言う
言葉が、計画が絵空事に思える
のはなぜだろうか
政治を信じていないわけではない
被災した人々と
同じ人間がなすことなのだから
歴史上、未曾有の国の予算が
注がれたのになぜなのだろうか

 製紙工場から真っ白な煙が空に昇る
働く何人ものたくましい人々の顔を想像する
歩みがすでにはじまっているのは
たしかなのである
 夕暮れになり
一番星が北の空にかがやいた
まだ帰らぬ人を待つ
家族を想う何万人の人たちが
今夕、星を仰いでいるのだろう

 5年目の春を迎えた
天上へ行った人々
海の底に、土の下に眠る人々
哀(かな)しみだけを想うのを
やめなくてはならない
どんなに短い一生でも
そこには四季があった
という言葉がある
笑っていた日を想うことが
人間の死への尊厳ではないか
太古より宿命とも思える
この国の天災を
人々は乗り越え、祭りの歌声
子供たちの笑顔を
ゆたかな自然とともに築いてきたのだ

 美しいものとむごいものが
隣り合わせているのが
私たちの生命としたら
さあ今日から美しいものを信じて
自分の足で歩きはじめよう

仙台市在住の作家 伊集院静さんの
新聞の投稿でした

最後までお読みいただき
ありがとうございました

京都市伏見区西尼崎町894-2
カーサ・デ・伏見
casadefushimi@gmail.com